『RIP』について。②題材

【2.題材・ストーリーについて】

撮影条件や、今回やりたいことは前の章で書きました。

そのことを踏まえて、題材をどう決めたかなのですが、当初漠然とやりたいネタがありました。

①生まれつき全盲だった人が最新神経手術で見えるようになるが、見える世界をどう認識して処理していいのか、脳が混乱してしまう。そのとき・・・。

②事故死体で見つかった恋人の足取りを追うと、そこに見え隠れするのは自殺補助団体だった・・・というサスペンス。

という2つです。

①の興味は、主観的な「初めて見えた混乱」を、どう観客が体験できるように作れるのか、アイデアを出しようがあるかなと思ったからです。

色盲矯正サングラスや、補聴器を初めてつけるyoutube動画がたくさんあって、そのどれもが面白かったということもあるでしょう。

単純に「見えるようにしてもらって、一緒にいろんなものを見たい」という身近の思いと、

「見えない世界は不自由というわけではない」という二つの価値観ギャップがドラマを生んで面白いのでは、という気持ちもありました。

全盲の方の本を読んだり、世界の認知の仕方が自分と全く違う人がいるという事自体(多かれ少なかれ全員違うでしょうが)、純粋に知りたいし、とても面白いなと思いました。特に僕は視覚情報に頼り、またそのことでがんじがらめになっている気もしたので。

②の興味は、当時3Dプリンタで作られた、個人用自殺カプセルが、海外で試用販売されるというような記事を読んだことがきっかけです。

「自殺を選ぶ」ということと、「最後に自らボタンを押す」というのが、妙に気になったのです。


その頃、僕はgroup_inouという音楽ユニット(ラップ)にはまっていて(すでに活動休止していましたが)、彼らの曲名に倣って

①を『EYE』、②を『RIP』にしようと漠然と思っていました。

ちなみにgroup_inouの『RIP』では、トラックがピコピコとショボかっこよく、さらに歌詞は言葉遊びのようにできていて、

「RIP=安らかに眠れ」と「LIP=くちびる」を連想していくという遊び心があります。

僕はそのことから、この2作をポンポンと撮影して、連作『人体シリーズ』としようかな、と妄想していました。

(音楽については、撮影後の章で触れる予定です)


しかしこの2つ、結局無しだと判断しました。

理由は前章に書いた労力と金、画としての表現を省エネでやる、という当初の目標に反するからです。

さて、ジャンルものではなくなったものの、『自殺』(今は『自死』の方が正しいのかもしれません)は僕の興味を惹いたままでした。

興味は最初『自死する人の最後の心理』に興味があったものの、遺された人の『なぜなのか理由がわからない』故の辛さも知りました。

結局、この2つは残された側からすると、1つの線でまとまると思いました。

「『なぜなのか、さっぱりわからない』から『本人の心理や動機』がなんだったのか悩む」、という意味で。

結論から言ってしまえば、理由や動機は自死者当人にさえわからないのかもしれない。でもそう割り切ることも簡単ではないということもよくわかります。

この頃まだ上記のように整理がついていませんでしたが、そんな時に「別れた夫が自殺したと連絡を受けたが、自分へのあてつけだと直感して、ただただ腹が立った」という女性のブログを見たのです。

怒り、というそこに何とも言えないリアルさを感じた僕は、これでいこうと思いました。


なんとなく、「死んだことに怒る」という一点でいこうと決め、

翌日、百々君に喫茶店で会ってアイデアの概要を話すと、

百々君「面白いですね。で、自殺の理由は何なんです?」

僕「いや、それはわからないんだけどさ。とにかく怒るわけ」

と答えました。

家に帰って考えてみると、「遺された彼女の中では何か理由を解釈して(それが正しいかはさておき)、怒る」という流れが物語的にはしっくりくるなと思いました。

百々君が正しかったのです。


僕は「浮かばない時はとりあえず走る」「困った時はとりあえずパクる」、ということをモットーにしています。

いつものランニングルートを走りながらぼんやりと頭に浮かんだのは、黒沢清監督の『降霊』(1999)と、それから篠崎誠監督の『おかえり』(1995)でした。

この2つの映画は、「自分のやりたいことを諦めた」というイメージが僕の中に強くあったのです。

前者では、秘められたその事実が明らかになった時、その溜め込んでいた思いにゾっとする。

後者では、あくまで相手との直接の関係性というわけではなく、語られなかったバックストーリーとして根底に流れていました。

僕は、「そうだ、男女逆転してパクっちゃおう!」といつも通り安直に思いつき、「うん、そうだそうだ。その方がイマっぽいよ」と自分を正当化しながら、

走るのをやめてポカリの代わりにコーラを買って帰ったのでした。


こうして、ざっくりとモノローグばかりのメモ程度のものを書きました。

画的に大きくは何も起こらない。それも当初の目的に適っていました。

よし、このままで足さずにいこう!と思いつつ、同時に不思議な気持ちが起こってきました。

「なんとなくの後ろめたさ」です。

他殺はエンタメとして消化されることもあります。でも自死はなかなかそうできない。

例えば殺人が「ナンセンスギャグ」にできたとして、自死はそうして良いのか(そういえば『キックアス』の冒頭はやってますね)、

シリアスなものであればなおさらです。単純に死者を悼む系の方がなんか気が楽、そう思いました。

僕としては攻撃的な思いで考えたのではなく、一見矛盾に見える人の心の動きの興味深さをやりたかったのですが、

「悪意で作った、善意で作った」ほど安っぽい言い訳にしかならない戯言もありません。

僕の意図とは別に、僕自身の自死というもの自体への攻撃的メッセージに取られかねない。

「これは嫌われるだろうな」と思いながら、同時にこれはこれで興味深いことだなと思いました。

殺人がOK、自死がNGだとすると、その理由はなんなのか?

「当事者が近くにいるかどうか?」、「それとも当事者の数?」、ただそれだけなのか他に理由があるのか?

そのことで僕が、倫理的ジャッジして作らないなんて、そんな『善意』も安っぽい気がする。僕はこのこと自体も面白く思ったのでした。

恐らく半数の人がムっと悪趣味だと思うかもしれない、あと4割は何も起こらず単純につまらない、と思うかもしれない、1割の人は、知らない・・・。

まあ、それで良いや、と思いました。

今は、結果作ってよかったと心から思っています。


ちなみにシナリオを友人たちに渡した時には「酒井君、平気?君自身のことでしょ?自殺を考えてるの?」と言われました。

部分的に僕がよく怒られることなどをモノローグにギャグ半分で混ぜたりもしましたが、自死をする気は全くなかったし、

自嘲的に自分を見ていなかったので意外でしたが、「そう見えてるんだな」と思うと、ショック半分心配してくれるのが有難い半分、

「なんか必死に否定するのもなあ」と思って反応に困りました。

「バレた??」が一番正しい返しだったと、今では後悔しています。

(制作段階・撮影についてはまた別に書きます)

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百々保之