二つ目の映画については2つのシーンを見てもらっていて、それについての話から、関連した雑談まで、相変わらず単なるボヤキですので、もしかしたら情報や日本語に誤りがあるだろうというのと、引き続き特に意味はありません。
(酒井が「ヘッドフォンつけて見て」と言っていた2本目の映画の冒頭にある2つのシーンについて)
畠山「いや、これは変なことしてるねえ(笑)」
酒井「これどっちのシーンも本筋入る前の説明段階というか、その点描部分みたいなものなんだけど、ものすごいワクワクしたの久々に見直したら。これ単純にね、音だと思うんだよね。画と音だと思うんだけど。特に音がステレオ(方向ある)というだけで面白いというか。これ天使の主観ショットみたいな変な感じと、主観なのか客観なのかよくわからない画で、天使に聞こえる人々のモノローグの心の声と、部分的な環境音が聞こえてくるじゃん?」
百々「うん」
酒井「これがステレオになってることによって、天使の目線的にも聞こえるんだけど…このなんつうのかな、『リアルではないモノの見方』っていうの?演劇との圧倒的な違いだと思うんだけど、それが多分ワクワクさせるんだよなって思うんだよね、俺が勝手に思うのは」
畠山「だから、表現方法の発見ていうか、開発っていう感じだよね」
酒井「そう。まあある種の実験なんだけどさ。勿論これストーリーと関係ないというよりかは、ストーリーの説明のためにやっているにもかかわらずそれを超えて面白いっていうことなんだけど…。特に出産直前の夫婦が出てきた瞬間にかなり興奮するの、音を聞いてて。「なんだこれは、全く意味わからないけどすごいぞ」ていうかさ。まあそのワクワクを説明できないんだけど、一つにはこれは音の実験がこれを生んでるんだよなということなんだよね」
畠山「うん」
酒井「かつさ、図書館のシーンの方が顕著だけど、人の目線が気になるんだよね。これ主観ショットなのか客観なのか曖昧なショットをずっと撮ってるから。つまり天使の目線なのか観客の目線なのか、いったりきたりするじゃん?だからさっき言ったステレオだから聞こえてる方向を意識するっていうこともそうなんだけど、誰かがカメラを見た瞬間に、切り返したらどんな画っていうのをすごい想像させるっていうのかな。カットが切れる瞬間が一番ワクワクするんだよね。これが不思議。図書館のシーンはそれにプラス、目線の先にカメラがふわっと浮遊して行って、その後何が映るのかなって瞬間も面白いんだよね。まあ、これわかりやすい発想で、静かなはずの図書館が、天使からしたら騒々しいんだっていうね、それがアイデアとしては単純に面白いは面白いんだけど。それにプラス『音の妙』と、主観ショットなのか客観なのかの曖昧さ…。いわゆるさ、よく邦画で主観ショット出てくる映画ってさ、大体手持ちになったりさ、もう説明なんだよね?」
百々「うんうん」
酒井「ダサいことやってるじゃん。でもこれ、説明を超えた、主観だろうが主観じゃなかろうが曖昧で良いんだっていうか。でそれにプラス音の方でも主観と突き放しの曖昧さが、ものすごくワクワクさせるんだよね。なんかわからないけど言葉では表現不可能な面白さね、それを感じた、っていうそれだけなんだけど(笑)」
畠山「(笑)」
酒井「こういう、他に俺の知らないこういうことを、これをみんなでやって知りたいなと思ったの。もうときめかなくなってきたからね、俺も」
畠山「(笑)あでもなんかその最近で言うと、俺がなんか一番面白えと思ったのは、あのエヴァンゲリオンの新作なんだよね。あれなんか、実験的というか、やりたいが先行しているような…。そういうことだと思うんだよ、この映画とかも。なんとなく思いついて、「こういうことやってみたいんだ」で、後から理由(ストーリー)つけてくみたいなことが多分あると思うんだけど。なんかエヴァはそれに近い気がして。「こういうことあったら面白いよね」から始まって、それを肉付けしていって、それをちゃんと説明しないから、見てる人は「なんでだ?なんでだ?」ってなって。で、俺なんかは「なんでかわからないけど面白い」の一言で楽しめるものってあるじゃない。それに近いものがある気がするのよ」
酒井「感覚的にってこと?」
畠山「そうそうそう。でもわりと多くの人はさ、やっぱり「ちゃんとわからないと損してる」みたいな感覚はあるのかも。なんか感覚で楽しむというより、ちゃんと筋を、という欲求というか、そういうのがあるのかなーっていう」
酒井「その知性的な楽しみ方とか、あるいはドラマを理解して感情的な楽しみ方っていうのかな、共感とかそうだと思うんだけど。それらってなんつうのかな、美術館で絵を鑑賞するのと一緒で、なんかガラスを一枚挟んだ味わい方のように思うんだよね。でもドキドキハラハラとかってそのダイレクトに感覚で来るじゃん。でその感覚で来るものっていうものが、音と画でしかできない何かだと思うの。そういう瞬間が今あまり無いなって、その瞬間が見たいんだよね。まあエヴァンゲリオンは見れていないんだけど」
畠山「俺とかはわりと、どういう時に感動するかなーって考えたりするとさ、なんかこう見てて勝手に想像して楽しむみたいなところがさ。勝手に文脈を作るっていうか。だから感情で楽しむって感じなのかな?そういうのが自分はあるような気がするって感じなんだけど。でも、かといってストーリーじゃないっていうか感情なんだよなって感じなんだよね。例えば何か『ピョーン』(※1)とかやったのも、自分が愛しいと思えるような人がいなくなる感覚みたいなものを感じて欲しいなって思ったわけ。もうそこだけに全振りしたつもりなんだけど。だから全然ストーリーとかもシンプルで良いやと思ったし。なんかそれだけやりたいなと、だからおばあちゃんが可愛く、魅力的にお客さんに見えて、それがいなくなったっていうことを感じられる…まあそれって15分だとなかなか難しいと思うけど、やってみたの」
(※1 『ピョーン』は畠山君の2021年制作の自主短編)
酒井「うん」
畠山「割と人に見せると、ストーリーが読めすぎるとか言われちゃって(笑)人はストーリーに興味があるんだというのは、あるよね。特に脚本書く人とか」
酒井「うん。映像って小説のわかりやすい版でしかなくなっちゃうじゃない、下手をすると。本を読むよりわかりやすくて手っ取り早いというか。それ以上の表現ってあるはずだよなって思うんだけど。なんか最近ときめかないのは、そういうことかなって思うんだよね。音と画の表現ではなくなってるっていうのかな」
畠山「俺、最近やってたり見たりして思うのは、なんかこう特に日本は何かお話主義になっちゃってるなーって言うのを見てて思うんだよね。何か作っててもプロデューサーとかに「もうちょっとヒネった方が良くないか?」とか言われるのよ。でもヒネったらさ…。勿論2時間あればね、ヒネってヒネってでもいいんだけどさ、なんか20分とか30分そこらでヒネったってさ、なんか表現する時間がなくなるじゃない。例えば、今見たようなこういう表現の工夫を演出の人がやるはずが、こう変にストーリーをヒネろうヒネろうとして、結果的にその説明に追われちゃうみたいな」
酒井「多分さ、シナリオがあって、そのシナリオが人間のドラマを描いてて、それで芝居するよね?で、芝居したものをそのまま如何に美しく切り取るかみたいな。「芝居を、美しく切り取って、繋いだもの」みたいな。それが全ての悪の根源なんじゃないかなと俺は思ってるの」
畠山「(笑)」
酒井「単なる、美しく切り取られた芝居にしか見えないっていうか。それが当たり前のフォーマットになりすぎていて、それこそが見るのも作るのもつまらなくしている理由なんじゃないのかなって思うんだよね」
百々「うん」
酒井「実際にはさ、商業とかだったら予算の都合も当然あるし、如何にある程度のクオリティで撮り終えられるかということを考えたらそれが一番早いんだろうけど。そんなのって面白いの?って思ってるって感じかなー、まあ単なるボヤキなんだけど…。音と画である必然性が全然無くなってるっていうのかな」
百々「なんかさ、『写生画』みたいな感じなんだよね。言ってる意味わかる?俺の中の整理としてはそれなんだけど。「じゃあ写真で良いじゃん」みたいな。要するにリアルを模倣したものを書くものが写生画だとして、でもそれって写真がないときは重宝されたけど、今や写真を撮れば良いって話じゃない?なんかそもそも映画で面白かったものは『抽象画』的な事なんじゃないかって…」
酒井「なるほど、まさにそういうことだ」
百々「それが今顕著に、この今見た2本のシーンではある。俺も最近、感性ダブダブなんだけど、俺はなんかその映画っていうことよりも、なんかいろんなエンタメに対して感性ダブダブなような気がしてて自分が。何を見てもあんまり…どこかで見たことがあるようでなんか面白くない。で、この間酒井さんには言ったけど、360度カメラ見た時にちょっと面白いなーと思ったんだけど。俺らがやってることは芝居を切り貼りして、これを見ろって言うことを縛り付けることだとしたら、舞台っていうのは目の前に芝居があって、どこを見てもいいって観客に委ねられるというか、自由度がある。360度カメラって、ちょっと畠山さん暇な時見て欲しいんですけど、あのスマホだったらスマホで振ったりとか、360度どこを見ても良いわけですよ。俺がちょっと面白いなと思ったのは、レーシングカーに水着のねーちゃんが乗って360度カメラ持ってるんだけど。レーシングカーが走ってるから背景もすごい動いてるんですよ。前を見ることもできるし、後ろを見ることもできるし、ドライバーを見ることもできるし。でも最終的に、カメラ持ってる水着のねーちゃんのパンチラか、女の谷間に視線が釘付けになってる、自分が、自分の指向性がわかって、その発見が面白いなというか(笑)。そもそもだから映画って、そのありのままというよりかは、そのなんか「これを見ろ」みたいな感じでこう歪曲しているところに、それぞれが面白味を、見てる人は勝手にワクワクするものなのかも、という気はする」
酒井「今話を聞いてて思ったけど、その360度カメラはフレームを限定しないじゃない。それはそれで面白くて。で、優れた過去の作品って多分フレームがあることを逆に利用してんだよね。視覚が限定されているって事を逆の面白さに変えてると思うんだよね。例えばさっきの1本目の間の取り方って、これカットが割れてないと表現できないんだよね。これって視覚を限定することによって初めて生まれてるって言うのかな。ほんの2~3秒だけど、すごい沈黙の間があるかのようにフレームを通して感じられる。で2本目はフレームを限定されていることによって、これが天使の視点なのか、あるいは客観的な視点なのかの曖昧さが表現されてる。だからどちらも360度ではないってことを、つまり写生できないってことを、本質的に嘘なんだってことを逆手に取った面白さ、表現だと思うんだよね。そういう、嘘だということを逆手に取った表現があるかどうかなのかもなー、ワクワクって。例えばサスペンス映画とかはそれに近いものが沢山あると思うけど、その場で適当に今ナイフを持った男と、それに気付いてない女性を引きのロングでリアルに撮ってたらさ、多分ドキドキしないけど、部分とかを交互にクロースアップで撮っていくことで、むしろ没入感が生まれるっていうか。さっきから話してるような、画と音でしかありえない感覚を与えられるのって、むしろ嘘である表現をした時に初めて没入できるっていうか。リアリズムを壊さないと、感覚のリアルに行きつかないっていうか。そういう表現をかつては目指していたこともあったと思うんだよね、いろんなものが。多分それって、撮る不自由さに関わってたと思うんだけど…同録できない、カメラも重いとか、いろんなことが相まって「リアルにできない」というところが始まってるからだと思うんだけど。だから感覚のリアルを目指したんじゃないかって思うんだよね。そういう作りの作品が減ってるということはあると思うんだよね。なぜなら、芝居を撮って繋いだら、繋げてしまうから。まあそれで面白ければ良いは良いんだけど…」
畠山「多分ポイントだよね?なんかこう、要所要所で色々やってくれっていうことでしょ?超ざっくり言うと」
百々「(笑)」
畠山「なんか今見たような場面とかはアイデアじゃない?こういう表現のアイデアみたいなものが、色々張られてると良いんじゃないっていう」
酒井「あ、そうだね」
畠山「割と今、アイデアが乏しくてシンプルにいっちゃうっていうか。話の筋があって、その筋を見せるためにシンプルに追っていってやってんだけど、なんかそれだけに汲々としちゃって、こういうアイデアを見せる瞬間みたいなものが少ないじゃない。それはなんかあるよね。もっとなんかアイデアを張る瞬間みたいなのを。別にこういうことだけをやるんではなくて、勿論筋もあって、アクションもあって、その中に面白いアイデアがあって、それがずっと繋がって、ちゃんと筋も繋がっていくみたいな。だから俺は、シンプルな筋の中にアイデアが張られていった方が、きっと面白くなるんだろうなって気はするんだよね。俺がずっと思ってるのは、筋でなんとかしようとしがちっていうかさ、そういうのがある」
酒井「あー、複雑化して、その複雑なストーリーをシンプルに作っているだけっていうことだね」
畠山「そうそうそう、まさに。特にマス的なことで言うと、そう言う方が好きという気はするけど。本当はシンプルな筋の方が色々やれるじゃない、隙間ができるから」
酒井「仮にストーリーが複雑だったとしても、そのシーン内で問題になっていることはシンプルであれば、シーンの中ではいろんな工夫のやりようがあるよね」
畠山「結局筋を複雑にすると、説明しないといけないじゃない、どうしても。で、ここは説明説明ってやってたら、結局説明で終わるみたいな気はするよね」
百々「説明することに労力がとらわれすぎちゃう」
畠山「そうそうそう。脚本とかやっててもね」
まとめの話をしようとして…
酒井「あ、やっぱりまた戻っちゃうんだけど。さっきどこにグッと来るかみたいな話をしたけどさ、これ一つ言えるのは、カットを割ることの面白さというのもあるのかもしれない。今俺がビビっときているのって、もしかしたら。いつからかカットを割らなくなったことがアートになってんだけど、それが如何につまらないかって事だと思うんだよね」
畠山「面白くないよねー」
酒井「カットを割ることによって生まれる表現をしないだけっていうか。かつてカットが割れないことの面白さって、カットが割れてしか表現できないことを、あえて1カットでやってるから面白かったんだよね。ところが今は若い人までエドワード・ヤンの真似みたいにし始めてさ」
畠山「(笑)」
酒井「ただダラダラ長いみたいな」
畠山「あるよねー。でやること自体はめちゃくちゃシンプルなんだよね。別に何も起きないって言うか」
酒井「でまあ、なんかちょっと悩んでるみたいな奴が写ってるだけじゃん」
畠山「今日見たのも、今言ってたようなやつ(笑)いやー、きつかった。役者も面白くないんだけど、役者をやたら見せると言うか」
酒井「それこそやっぱり、「芝居を、美しく撮る」っていう、現場がそれで回っちゃってるからだろうね。本当は単に芝居の良さと、画の美しさが、映画の面白さにはあまり関係ないと思うんだけど。ただ良い芝居が見たいんだったら舞台に行った方が良いんだし。いや、表現に適した良い芝居というのはやっぱり存在するとは思うんだけどね。単にそれが現場でリアルな良い芝居というのと、それは多分別問題だろうなって思うし。なおかつね、芝居が良ければ、それを美しい画で切り取ろう、なんてした日には…カットも割れないロングショットで、表現の工夫のない、ダラダラした録画した演劇が生まれるよね」
畠山「これだったら演出いらねーじゃんて話じゃない」
百々「いや、演出っていう言葉が、演技をつけることだけになってるんだよね」
畠山「そうそうそう、そういう感じがして。役者にお任せだけみたいな、多分「こんな感じで」とかは言ってんだろうけど、なんでこんなに役者を信じちゃってんだろうなって」
酒井「役者を信じてるって言い訳だよね。映画を信じてないだけだよね」
百々「(笑)」
畠山「そうなのよ。だから最近見てて筋をこねくりまわしてるだけのやつか、筋もなく人間だけ写してるだけか、割と両極になってる気がして。それじゃないよなって感じがするんだよね」
百々「なんかテーマってのもよくないよね」
畠山「そう!テーマって…最近よく言われるんですよ(笑)「なんだよテーマって?」って。「写るのかよそれ」って」
酒井「じゃあ、最初に出せば良いよね、テロップで「テーマはこれ」って」
百々「(笑)」
畠山「結局でもそれって何でそういう言い方するかって言ったら、向こうにもアイデアがないからなんだよね多分。何言っていいか分かんないから、でもなんとなくうまくいってない気がして、そういう簡単な言葉っていうか、出しやすい言葉として「テーマを」とか言っちゃうって言う」
酒井「あのさ多分、最低限の成立を目指すからだよね、商業とかの場合。さっき言った、「面白いストーリーを、普通の芝居で綺麗に撮りました」、とこれで60点は超えるんだよね。見れるものにはなる。退屈だけどね。でもそれだけをとりあえず要件として満たそうとするから、シナリオでなんとかそこまでにしてくれっていうのをしていくしかないんだと思う。シナリオ以降は時間もない中で、リアルに芝居をしてもらって、はい、こう撮りましょうかというのになるだけって、もうわかってるから」
百々「うん、商業現場でよく飛び交う言葉として、『まあ、コレ撮っとけば成立します』って言うんだけど。成立ってなんだよっていう。まあ、人によっては大事なことかもしれないけど」
畠山「要するに、説明完了ってことだよね」
酒井「まあ勿論ね、まあ俺本当は映画が2時間も90分すら必要ないと思ってんだけど、そんぐらいあったとしたらどっかは当然ブリッジみたいに説明するだけがあっても良いとは思うんだよね。ただもうそこに追われるようになったら、なった状態の作品が今たくさんあると思うんだけど。これ商業映画だったらやむを得ないと思うんだ、日本のお金ないやつだったら特にそうなっちゃうよねって。アメリカもそうなってきてる風はあるけど、だけど向こうは稀に違う人がいるんだよね。ゼメキスとか」
ゼメキスの感想をダラダラ話した後。
酒井「うん、だから説明になってないんだよね」
畠山「表現なんだよね、だからね」
酒井「そう。だから表現なんだってことを意識しないといけないんだよね、自戒をこめてね。作品というのは、やっぱり表現なんだと。表現というよりかはテーマイズム(※2)になってきてるような気がするし。どれだけリベラルな、公平な目線でとか、そういうことになってくるよね。いやそれ自体はすごい重要で、でも表現でなく説明なら文章に起こしてくれた方がわかりやすいんじゃないかって。それだけなら録画する必要あるのかなとも思うんだけど」
(※2 最初のページと同様、こんな言葉があるかは知らないけど)
畠山「ドキュメンタリーの方が良いものもね」
酒井「単なるツールになっちゃったのかもね」
百々「映画に有用性が求められすぎている気もね」
酒井「本当にそうだよね、価値のあるものになっちゃってるっていうか。だからね、商業映画にはなんの未来もないだろうなって思ってるの(笑)」
畠山・百々「(笑)」
畠山「なんかアメリカもキツそうじゃない?」
酒井「細々とした何人かが繋いでるって感じはあるけど。あとさ、なまじ予算があるから、リアリズムっていう暴れ馬を乗りこなそうとしちゃってると思うんだよね、アメリカ映画って。かつ乗りこなせる巧い監督もいるから、余計ドツボにハマってるような気がするんだけど。そんな暴れ馬降りちゃえば良いじゃんていう人があまりいない、まあそれが稀にゼメキスとか、そういう人がいると思うんだけど、表現なんだって人。やっぱりリアリズムってものを利用してるんじゃなくて、それに振り回されてる感というか、それがアメリカも共通の問題としてあるような気がすんの」
畠山「多分だから、映画ってものがどんどん個人的なものになってくんじゃないかなって。どんどん商業的な地盤沈下はしていって、商業も規模は自主映画とあまり変わらないものもやっててさ。多分勝手にみんなが良いと思うものを勝手に作って、その中から今良いとされるものが一本釣りされていくような。それが映画館でかかって、という感じになるんじゃないかなって。逆にでもそれは自由っちゃ自由だよね」
酒井「まあ自由だね。尺も関係なくなるしね。でもピックアップする基準はどんどんテーマになっていくよね。そこが一番見やすいからね。なかなか知覚的な実験要素はなくなっていくというか」
畠山「だからまあ勝手にやれば良いんじゃない?勝手にやれるシステムができれば良いんだよね」
酒井「うん、そうそう。だから作るお金は引っ張ってきたとして、まあ商業でやる気はないからどうでも良いっちゃどうでも良いんだけど。ただ観客として、俺が個人的に心ときめかしてくれるものに出会うことが難しくなってるってことは単純に寂しいなって。過去作に比べるとね」
畠山「そういうのってやれないのかね」
酒井「アメリカは稀にやってるよね。アメリカは細々と続いていく気はするんだよね、そういう表現として面白いものを目指すものが、例えばあの人とか」
と最近の面白いアメリカ映画について話していく。
畠山「表現なんだよね」
酒井「脱線した話になるけど、ほら、監督とかもアイドル化して、その人の人格が好きかどうかでも作品が見られていく節もあるじゃない。タコツボ化した文化の中では(※3)。そうなっていくとさ、映画が役者や監督の熱い想いを作品のウリにしていたり、それがちょっとついていけないとこもね」
(※3 この前に「映画が低予算化していくのと同時に、メインのエンタメから、コアなファンがコレクション的に消費するタコツボ化したものになりつつある」って話をしていたので)
畠山「体育会系の、精神論感はあるよね」
酒井「化学実験室で作ってるんだ、という感じのどうどうとしてくれた方が個人的には良いなって。いつのまにそんな、頑張った、というのが価値になるようになったのかなってのもね…まあ、そんなとこですね」
畠山「(笑)」
酒井「まあこんな感じでお互い定期的にやっていこうって」
終わり
株式会社DrunkenBird
百々保之
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